長編3 1-2

未完成のTS長編を投下します
未完成なので拙い部分が多々ありますがご了承ください

*【ネガティブ注意報】
今作はマイナス感情が目立ちます
お気楽ストーリーをお求めの方はご注意ください

長編3 1-2
 美幸に良く似た声が、美幸の携帯を使い、美幸が大変だと俺に知らせてきた。
 それが何を意味しているのかまでは、さすがに予測が付かない。
 何度か折り返しの電話を試みるものの留守番電話のアナウンスに繋がるだけで、俺はいまだに状況が把握できていなかった。
 謎の早期解決とすぐ来いという言葉を尊重し、普段ならば徒歩で済ませる距離に自転車を使い指定された荻公園へたどり着く。
 ブランコと鉄棒の他は、穴の開いたドーム状のオブジェぐらいしか遊具のない小さな公園の敷地に自転車を停め、辺りを見回す。人影はどこにもなかった。
「やっぱ、イタズラか?」
 それにしては釣り方が適当だし、何よりも携帯に残された名前がその楽観視を許さない。
 携帯の着信履歴を開き、早朝に掛かってきた番号へ再三リダイヤルする。
 コール音が通話口から鳴り出す。すると同時に、オブジェの中から聞き覚えのある着信メロディーが響き出した。
「おわ、とととっ」
 穴の中で、長い黒髪が慌てふためいているのが見える。
「美幸!」
「うえっ!?」
 謎のオブジェに向かって名前を呼ぶと、その人物は驚いた声を上げてこちらを振り向いた。
 ドームの中に身を潜めていたのは、黒いコートを羽織った美幸本人だった。釣り餌が無事に見つかり、ほっと安堵する。
「どうしたんだよ。電話したの、お前か?」
「え、と。……あは、はは」
 鳴りっぱなしだった電話を切り、穴の中の恋人はごまかすような笑みを浮かべた。
「……美幸?」
 兄を失ってから笑顔を見せなくなった彼女が、今は目を細めて微笑んでいる。
 それは、悪いことではない。少なくとも『自分が死ねばよかった』と言って俯いているよりは、ずっといい変化だ。
 だがいくらなんでも、この変わり様は急すぎる。自分の無力はすでに痛感しているし、恋人を救うには俺の助けが必要なんだとうぬぼれるつもりはないものの、目の前の美幸は昨日の美幸とは明らかに別人だった。
「け、恵輔。あのな」
 慣れ親しんだ愛称ではなく、ちゃんとした名前で俺を呼ぶ少女が、思い出の中にいる誰かとダブる。
「待ってくれ」
 焦った様子で何かを伝えようとしてくれている彼女を遮り、一つの疑問を呈した。
「変なこときくけど、許して欲しい」
「お、おう?」
 嫌われることも辞さない覚悟で、自分の違和感を信じる。
「……お前、誰だ?」
 これ以上ないほどに失礼極まる質問だった。少なくとも、大切にしたいと思った相手に向ける言葉ではない。
 なのに目の前の少女は怒るわけでもなく、哀しそうな顔をするわけでもなく、むしろ感心したように目を大きく見開いていた。
「話が早ぇな」
 鈴を転がすような声に似つかわしくない粗野な口振りで呟き、また微笑む。
「ま、久しぶりってことになんのかな」
 もったいぶった喋り方が、記憶にある一人の顔をより鮮やかに思い浮かび上がらせる。
「あ、ちょっと上着貸してくんね? このカッコじゃ寒いわ、やっぱ」
「質問に答え────おい」
 オブジェに近付き、穴倉に潜んだ相手の姿をはっきりと捉える。
 雪がちらついてもおかしくない冷えた空気の中、俺の知る病弱少女と同じ顔をした女は、パジャマに黒コートという目を疑いたくなるほどの薄着をしていた。
「なんつー格好してんだよ、お前は!」
 急いで自分のコートを脱ぎ、穴倉の主に手渡す。
「おお? でっかいな」
 学校指定の黒コートを二枚分羽織った「美幸」は、指先しか見えなくなったぶかぶかの袖を物珍しそうに眺めていた。
「体格が違うんだから、当たり前だろ」
「あー、そっか。そうだよな」
 何かに納得し、うんうんと頷く。そのリアクションの仕方にも、俺は覚えがあった。
「オレいま、美幸なんだもんな」
 まるで自分が違う人物であったかのような台詞を朗らかに言う少女に、軽いめまいを覚える。話し方にも、表情にも、動作にも、その一つ一つがある面影にピタリと重なっていく。
 ありえないと思っている考えが、言葉を交わすたびにはっきりと形作られていった。
「お前……誰だ?」
 答えを察することはできる。しかし認められない。あまりにも常識からかけ離れている。
 それなのに、カノジョであるはずの双子の妹は、自分の兄貴とそっくりな笑顔を浮かべ。
「もうわかってんだろ? 親友よぉ」
 きっぱりと、常識を否定したのだった。


 あるところに、一人の女の子がいました。女の子には双子のお兄さんがいて、お兄さんも女の子もお互いのことが大好きでした。
 けれどお兄さんは死んでしまい、女の子はずっと悲しそうにしていました。女の子の恋人はぜんぜん役に立ちません。
 そんなある日、女の子は急に元気になって、役立たずの恋人にこう言いました。
「いやー、なんか気付いたら美幸の中にいてさー」
「…………」
 役立たず……もとい、俺は何も言えなかった。
 この話を鵜呑みにするべきか否か、そればかりが頭の中をぐるぐる駆け巡っている。
 死んだ兄が妹の身体に乗り移り、生き返った?
 ありえない。物語の中では幽霊は当たり前に存在し奇跡もたまに起こり得るけれど、現実はひたすら現実だ。
 美幸の言葉など、「妄想」というたった一言で切り捨てられてしまう。
 双子の片割れを失ったショックでおかしくなった。誰だってそう考えるし、きっとそれが正しい。。
「恵輔? おーい」
 しかし彼女がこうなってしまったことには、俺にも責任がある。彼氏がしっかりと支えてやれなかったから、美幸の心はひたむきに兄を求め、結果自分の中に「幸平」を作り出してしまったのだろう。
「おいこら親友」
 ならば、役に立てなかった俺は、今の彼女を受け入れるべきではないか。
 妄想を頭ごなしに否定して、いたずらに傷つけるよりは、その方がずっと──。
「聞いてんのかヘタレ小僧」
「ぁイッッッッッテェェェェッ!?」
 悩みに悩んでようやくたどり着きそうだった結論が、急激な痛みであっけなく飛散する。
 気が付くと、美幸はいつの間にか穴倉から身を乗り出し、俺の足先に自分の足を乗せていた。
「みゆき……あし、踏んでる」
「美幸じゃねーっつーの。美幸だけどさ」
 ちぐはぐなことを言い、足を踏みつけたことについてはいっさい言及せずスタスタと歩いていく。
「それより、家まで送ってくれね? ここじゃ風邪引きそうだ」
 公園の入り口に停めた自転車の傍で立ち止まり、サドルをバシバシ叩いて俺を急かす。さすが双子というか、幸平の行き当たりばったりなところまでしっかりコピーしているらしい。
「お前な、人を呼び出しておいて……」
「けーくぅん、寒いよぅ~」
「行くぞ美幸」
 自転車の後ろに美幸を乗せて、俺は澤村家へと急いだ。
「……ホント扱いやすいよな。お前」
 背中にしがみつく恋人が何か呟いたが、耳が着信拒否したらしく何も聞こえない。
 一軒家が立ち並ぶ通学道を、パジャマの上にコートを重ね着した女と防寒着を身に着けないガクラン姿の男が自転車の二人乗りをして通り過ぎていく。
 朝日もそれなりに神々しく輝き出した頃合で、サラリーマンやジョギングガールやミス犬の散歩中といった面々とすれ違う。そういった爽やかな朝を迎えた方々から遠慮のない奇異の視線を送られたことは、自分の被害妄想として心にしまっておくことにした。
「なぁ、恵輔」
 俺の腰に両腕を回して荷台に座る美幸は、相変わらず自分の兄を模倣した喋り方を続けている。
「お前、信じてないだろ」
「何をだ」
「今の美幸の中身が、幸平だってこと」
 まぁ信じられるはず無いよな、と力無く言葉を続け、腰にしがみつく腕をほんの少しこわばせる。
「オレもさ、混乱してんだよ。気付いたら妹の身体になってんだぜ? わっけわかんねーよな、はははー」
 語尾をわざと明るい調子に盛り上げ、湿っぽさを抜きにした笑い声を上げる。俺に答えられる言葉は、何も用意できなかった。
「お前がこういう話、あまり好きじゃないってのは知ってるよ。でもさ、やっぱ信じて欲しいんだ。んでもって、一緒に美幸が元に戻る方法を考えていこうぜ?」
「……そうだな」
 もちろんそれについて異論などない。ただ、俺はあくまでも「妄想」から目を覚ますために力を尽くすつもりだ。
 根っこの所が幽霊派と妄想派で二分されているわけだが、目的が同じならお互いの手を取り合えるんじゃないかとも思う。
「わかった。協力しよう」
「っしゃあ! そう言ってくれると思ってたぜ親友!」
 承諾の意志を伝えると、とても男らしい反応で喜んでくれた。病弱でもぼけっとした女の子でもない、へらへらと調子のいい幸平の振る舞いそのものだ。
「お前な。せめて、美幸らしくしてくれ」
「はぁ? ……『愛してるわよダーリン』?」
 頭痛とめまいと、あと大切なものがうち砕かれてしまったような、そんな気分に襲われる。『好き』は何度かあるものの『愛している』なんて言われたのは今のが初めてだ。
「はぁ……」
 美幸は元気になった。でもそれは空元気ですらなく、俺には痛々しさだけしか伝わらなかった。
 兄に成り済ます恋人を見守ろうという考えは撤回させてもらう。幽霊か妄想かと区分けすることさえ、何の意味もない。
 どうすれば「幸平」から「美幸」に戻るのか、重要なのはそれだけなのだ。

   *   *   *

 いつもと代わり映えのしないチャイムが鳴り止み、担任がクラスメイト達の出欠を一人ずつ確認していく。
 割合早い段階で名前を呼ばれた俺は、残りの時間を窓際族の特権を活かすことに費やした。空を眺めながら、かったるそうな点呼を右から左へと聞き流し物思いにふける。
 頭の中に浮かんでくるのは、美幸のことだ。「幸平」を自称しだした彼女をどうすれば元に戻せるのか、そればかり考えている。
 しかし妙案は浮かばず、有効な手といえば信頼できる人物に事情を話して協力を乞うぐらいしか思いつけなかった。
「高原~」
「はい」
 巻き添え候補に思い浮かんだ相手の名前がちょうど呼ばれ、返事の上がった方へ視線を移す。柔道部の女子マネは、今日も全身から活力に満ち満ちていた。
 高原にはどのみち美幸のことを話しておく気でいた。美幸とも幸平とも親しかったあの女に下手な誤魔化しが通用するとも思えないし、それなら早いうちから関わり合いになってもらった方がこっちとしても心強いからだ。
「?」
 じっと見つめる俺に気付いたのか、視線がぶつかる。
「ふんっ」
 キッと鋭く睨まれた挙句、そっぽを向かれてしまった。
 昨日のことをまだ引きずっているのか、それとも俺が柔道部の朝練をサボったことを怒っているのか、ひょっとしたらその両方かもしれないが、とにかく高原はご機嫌斜めのようだ。
「ふぅ」
 幽霊だか二重人格だかのエキセントリックな早朝に続き、友人との隔たりを持ち越したリアリティー溢れる朝にため息する。この調子では、力添えなど期待するだけ無駄に終わりそうだ。
「連絡事項は特になし。以上」
 朝のホームルームが終わり、クラスメイト達がそれぞれ自由に席を立つ。
 俺もそれに倣い自分の席を離れると、まっすぐ一人の人物へと近付いた。
 もしかしたらという可能性を捨てきれず、座っていても長身だと一目でわかる女に声をかける。
「高原、ちょっといいか」
「……いい根性しているわね」
 頬杖を付いて眉を吊り上げる高原は、台詞の端々に怒りを滲ませていた。
 どう贔屓目に見ても好意的でない様子で出迎えられ、期待値がゼロからマイナスに傾く。
「でもま、その度胸に免じて先に話を聞いたげる。何の用?」
 先に、ということは後でお小言でも飛んでくるのだろうか。高原に話しかけたことを早速後悔しそうになった。
「あーその、な。美幸が大変なことになった」
 手始めに、俺がまんまと釣られた言葉をおすそ分けしてみる。しかし具体性のないこんな一言で食いついてくるほど、この友人は簡単ではなかった。
「それは、レギュラーメンバーが二人もいなくなった柔道部より?」
「ああ。で、お前にも協力して欲しい」
 思い切り皮肉の篭った台詞に、なんとか平静を装い本題に入る。
「あたし、部活で忙しいんだけどなぁ」
 高原は苛立った声を上げて、視線をあさっての方へやった。
「ちなみに、どう大変なの?」
 まだ苛立ちを残すものの、とりあえず話を聞いてくれる気になったらしい。感謝をし、事情をかいつまんで説明する。
「それがな。美幸が幸平になった」
 いくらなんでもはしょりすぎた。
「つぇぃっ!」
「おご!?」
 胸中で一人ツッコミしていると、実体を伴って脳天に衝撃が走った。というか眼前のデカ女から手刀を食らわされていた。
「い……ってぇな! 何すんだ」
「うっさい! あーあー真面目に話を聞こうとしたあたしがバカだったわ」
「ちょっと待て、最後まで話を」
「死んだ親友使ってまで部活サボりたいんでしょ!? 最っっっ低!」
「そう来るか」
 俺のことを普段どう見ていたんだか。
「高原。まずは落ち着いて話を」
「聞きたくない! 聞かない! 話すことなんてない!」
 大きな音を立ててイスを引き、いきり立った形相のまま席を立ち上がる。
 乱暴に引き戸を開き教室を出て行ったあとも、俺はその姿を追うことが出来なかった。
「……ま、そうだよな」
 殴られた頭をさすりながら愚痴る。
 あそこまで凄まじい剣幕で怒鳴られるとは思っていなかったが、そもそも自分でも信じられないことを他人に信じさせられるわけがない。この問題は、やはり俺一人でどうにかするしかなさそうだ。
 それから、次の授業が始まる直前に高原は戻ってきたが、さすがに改めて話しかけられるほどたくましい神経は持ち合わせていない。向こうも向こうで休み時間の度に姿を消し、あからさまに俺を避けるようになった。
「きりーつ、れー」
 チャイムが授業終了を知らせ、日直がやる気のない号令をかける。
 教師より先に教室を飛び出すクラスメイトや、仲の良いグループが机を寄せ合わせる光景をぼんやり眺め、高原も友達数人と喋りながら廊下へ出て行ったのを見届けると、俺も重い腰を上げた。
 三クラスほど離れたクラスを尋ね、戸を開く。
「お?」
 彼女の席には、誰も座っていなかった。
「澤村なら、さっき出て行ったよ」
「そ、そっか」
 入り口付近に座っていた美幸のクラスメイトが、聞きたかったことを先回りして答えてくれる。簡単に礼を伝えると、俺は美幸の姿を求め昼休みで賑わう廊下に戻った。
 足は自然と、中庭へ向かっている。
 付き合って以来、昼はいつも中庭のベンチで待ち合わせをして、一緒に弁当を食べていた。もしかしたら美幸は、先にあの場所で待っているのかもしれない。
 だがもしそうだとしたら、いよいよ今朝のことがわからなくなってくる。あまりにも普通に過ぎていく時間の中に、幸平の面影はどこにもない。
 朝のアレは、ただの夢だったのではないか。そんな願望を確信へと近づけていく、その矢先だった。
「美幸?」
 廊下の壁際に、長い黒髪を湛えた美幸の姿を見つけた。自分の身体を両腕に抱きかかえ、ストッキングに包まれた太ももの内側をせわしなくこすり合わせている。
「何してんだ?」
「うひゃあっ」
 近付いて声をかけると、お約束過ぎる反応が返ってきた。
 何をそんなにキョドキョドしているんだか知らないが、恋人にそんなリアクションをされてしまうと少し傷つく。
「な、なんだ。恵輔か」
 あだ名ではなく名前で呼ばれ、胸がドキリと脈打つ。同時に、目の前の少女が美幸であって美幸でないことを教えさせられた。
 やはり彼女は「幸平」になったままらしい。しかも本人らしくしろと言ったのに、もうそのことを忘れているようだ。
「あのな、話し方を直せ」
「えー、二人きりなんだし、別にいいじゃんかよ」
「お前の目ン玉はガラス製か?」
 昼休みの廊下で人気のない場所なんてまず存在しない。実際さっきから、同じ制服に身を包んだ生徒らとすれ違いまくっている。
「だいたい、こんなところで何してるんだ?」
「あー、それなんだがな」
 喋っている間も、挙動はそわそわと落ち着きがない。
「ぶ、武道場、行かね?」
「はぁ?」
 予想外すぎる単語の登場に、つい怪訝な声を上げてしまった。
「っていうかついて来い。頼むから」
 頼むといっておきながら命令し、ぐいぐいと手を引っぱってくる。久しぶりに握った恋人の手を自ら振り払うことはせず、急ぎ足に、しかし何かに気遣うような慎重さを伴った奇妙な足取りに歩幅をあわせて廊下を進んだ。
 何をしに行くんだという質問に、すべて「いいから」で返され続け、ようやく武道場の入り口にたどり着く。扉は締め切られ、中心には古めかしい南京錠が掛かっていた。
「なぁ、ここに何の用だ」
「いや用があるのはこっち」
 美幸は窓際沿いに歩を進め、相変わらず言葉を濁す。
 敷地の外れだけあって、武道場の周辺に人気はほとんどない。校舎の中から聞こえてくるざわめきが、どこか遠くのもののように感じる。
「見張ってろ」
「は?」
 急に立ち止まり、命令された。
 すぐ横には、武道場に備え付けられた小汚いトイレがある。中は全て個室で一応男女兼用になっているが、あまりにも手入れが行き届いていないため女子はほとんど使っていない。そもそも男連中の使うトイレに入れるわけがないというのは、高原の弁だ。
「誰か来たら追い返せ。いいな」
「何で?」
「と、トイレ行きたいからに決まってんだろ」
 もじもじしていたのは、それでか。
「わざわざここで?」
「女子トイレなんか入れるかボケーッ」
 可愛い声で乱暴に怒鳴り、真っ赤な顔をして共同トイレに飛び込んでいく。
「あー」
 生理現象を美幸の声で叫ばれ、妙な気恥ずかしさに駆られる。きまり悪さをごまかすように視線を落ち着きなくあちこちにやっていると、窓ガラス越しに武道場の中が窺えた。
 床に敷き詰められた畳の鮮やかな緑色が目に入る。ほんの数ヶ月前までは毎日のように見ていた光景がいやに懐かしい。
 締め切られていても漏れ出る藁と汗の混じった臭いが鼻先を刺激する。断じて良い香りでないが、この悪臭もまた練習に打ち込んでいたあの頃を思い出させた。
 けれど俺は、もう二度と柔道をやりたくない。
 美幸のことを心配する以上に、本当は「やりたくない」という気持ちの方が強かった。
 なぜなら、俺は柔道が────怖くなった、から。
「なーに暗い顔してるんだ?」
「おわあああああっ!?」
 過ぎ去った記憶に意識を傾けすぎていたからか、美幸の顔がいきなり目の前に現れ飛び上がりそうなほど驚く。
「なんだよ叫ぶなよ。うっせぇ」
「あ、ああ、悪い。……いや、ってか脅かすなよ」
「ボーッとしてっからだ」
 美幸は悪びれない調子で明るく言い捨てて、俺の視線を追うように背中を向けた。
 畳の敷かれた武道場を見ていったい何を思うのか、その後姿からは窺い知れない。先ほどのお返しの意味も含めて表情を覗き込んでやろうとしたが、そうするより先に美幸は再びこちらを振り向いた。
「な、恵輔」
 口元だけを微かに和らげて、穏やかに尋ねる。
「お前さ、ハラ減ってねぇ?」
「は?」
「学食行こーぜ、な」
 おどけた調子でそう言い、微笑はあっというまに満面の笑みへと変貌した。


 学食に入ると、意外なことに生徒たちの姿はまばらだった。
 セーラー服と学ランがひしめきあい、鷹の如き目で空席を狙い、野獣の咆哮と共に購買のパンを奪い合う光景はどこにもない。どうやら不景気のあおりはこんな所にまで及んでいるようだ。
「なんだよその顔。言っとくがいつもの学食は戦場だぜ?」
 学食の常連だった男は、チッチッチと指を振りながら得意げに語る。あまりここを利用したことがない俺には、その言葉を鵜呑みにしていいものかどうか迷うところだ。
「戦場ねぇ」
「気をつけろ。ナメてたら後ろからズドン、だ」
 迷って正解だった。
「えーと券売機は、っと」
「なんだよー、ノリ悪いぞー」
 美幸の不満そうな声を無視して、食券を買い求める。
「お?」
 券売機に近づくと、ボタンのおよそ九割が赤字で【売切】を表示していたことがわかった。
 不況どころか、大盛況だったらしい。これなら学食のおばさまがたもホクホクだろう。
「んげ、完売かよ」
 美幸もたったいま学食に人気がない理由を理解したのか、調子の外れた声を上げて券売機を凝視する。
「余ってるお新香でも買っておくか?」
「わびしい昼飯だよぉ~。しくしく~」
「美幸の真似すんな。つーか似てねぇ」
 確かにいくつお新香を食べたところで、男子高校生の胃袋が満足するとは思えない。それでも、昼抜きで午後の授業に臨むのはかなり厳しいはずだ。
 ならばせめて漬物だけでも上納しておけば、腹の虫から抗議が来る可能性はぐっと低くなる。自販機で炭酸系を買っておけばより磐石だ。
「こ、小宮」
 財布を取り出し、券売機の全てを【売切】にするための準備に取り掛かろうとした間際、声がかかる。
 振り向くと、朝のホームルームからずっと俺を避け続けてきたクラスメイトがバツの悪そうな顔をして立っていた。
「あ~あの、朝はその、ゴメン。言い過ぎた」
 いつものサバサバした態度からは想像のつかないたどたどしい話し方で、高原は謝罪の言葉を紡いでいく。
 俯き加減に髪の毛先を指でいじるその姿に、暴力マネージャーの片鱗は窺えない。いっそ不気味でさえあった。
「そ、それだけだから。じゃあねっ」
 いつもならこっちの心の中を見透かしたようなタイミングで拳を握るくせに、今回はそうしたやりとりもなく背を向ける。
 拍子抜けするぐらいあっさりと引き下がり、高原は待たせていたらしい友人達の輪の中に戻っていった。
「なんだお前ら。ケンカしてたのか?」
 朝のひと悶着を知らない美幸が、小首をかしげる。
「ケンカっつーか、なんつーかな」
「ふぅん……こじれそうか?」
「どうだろうな」
 そもそもの原因は、俺が部活に出ないことが大本になっている。
 朝の件を折れてくれたとはいえ、根本をどうにかしない限り溝が完全に埋まることはない。
「そっか。わかった」
 けろりとした軽い口調で何かを得心した美幸に視線をやると、その表情には既視感が刺激される微笑が浮かべられていた。
「ちょっと待て、何する気だ」
 重ねられたのは、トラブルを標準装備していた幸平の顔だ。
「なぁに。全部オレに任せとけ」
 めまいの誘発剤代わりになるほどに聞かせられ続けた台詞が、美幸の口を通して耳に響く。
 この台詞を言った男が、物事をスムーズにした覚えは一度もない。残念ながら、話が余計にこじれそうな気配しかしなかった。





ストックはここまで
ここからが本当の地獄(スローペース)だ……
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巫

Author:巫

・TS好きのはしくれ
・小説モドキを主に不法投棄します
・えろいといえなくもない表現を時々するため、10代前半以下の方の閲覧はお勧めしません

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・ぬるい目で見守っていただければ重畳
・……上記のように妙な言い回しをする悪癖あり

・モドキとはいえ小説を公に無断転載してはいけません 常考
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